天高きこと一万尺、その頂はさらに無限の理力に通ずる。

                 尊無上亜甲中玄  


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玄上の哲学(概要)


 プロローグ

 誠に申し訳ございませんが、ここには「哲学」はありません。無いのです。「無い」ことが最大の哲学かもしれません。無い所にこそすべてが生まれ生成発展していくのです。「無い」ということは無限の可能性を秘めていることです。私もそうでしたが、無神論ほど強い信仰はないでしょう。また、今生まれた赤ん坊がいるとしましょう。この子の将来はどうにでもなります。偉い先生になるかもしれない、泥棒になるかもしれない。これは、目に見えない、一般にいわれるところの「神のみぞ知る」なのです。亜甲中玄の哲学自体、目に表すことができず、耳に聞こえず、手に触れることができない、これをあえて文章にするには私自身、大変困ったことです。


 1.出会いの哲学「必然の理論」

 私たちが学問で勉強していること(またはしてきたこと)は、「偶然」の事象は何一つ無く、すべてが「必然」なのです。その学問で解決がつかない事象を一般に「偶然」といいます。

 算数では1+1が2になることも必然なれば、遺伝子組み替え技術も一昔前は「偶然」の部分も科学の進歩によって「必然」になってきました。高いところにあるものは、必ず落ちる。これも「必然」なのです。

 今、あなたがこのページを見ていること、これは「偶然」ではありません。さかのぼって考えると、「これは何だろう。・・・」と、思ってページを開く、その前は、朝起きる・・・・と、何かでつながっているのです。出会いを「偶然」でなく「必然」で捉えると、これこそ大切にしなければならない心理が働くのですが、今日の大半の人が「出会いは偶然」と考えるでしょう。偶然視するが故に、それがいかに大切かを感じないまま、世が乱れる。出会い、その必然から次時の可能性を生み出すので、それは大変貴重な事象なのです。

 太陽、自然、空気など私たちが大宇宙からこうむっている恩恵、さらに隣人からの恩恵。これらは偶然視しがちです。ラッキーなことがあると偶然視して流してしまいがちですが、ここにこれらのことを「必然」と考えると自ずと感謝の念が湧き起こり、心が豊かになることでしょう。

 2.次元のお話「因果、陰陽の観念から融合、超越へ」

 ここで言う「次元」とは、数学で言うところの「x、y、z、t」で表されるではありません。あくまでも、哲学の視点から見た次元のことですので、これを念頭に入れてこれより先を読んでください。

  物事の結果には必ず原因が付きまといます。これは、時間の軸に対して、一次元的概念です。また、上下、左右、大小などの空間に対する一次元的概念、時空複合型の磁場のSN、電磁場の+−など、物理陰陽型の一次元的概念。さらに、喜びと悲しみ、楽と苦、好きと嫌い、寛容と怒りなど、感情陰陽型の一次元的概念。生と死、若と老などの人生型一次元的概念など、私たちの身のまわりには必ずといっていいほど、因果や陰陽の次元にいるのです。

 まず、因果の関係ですが、「こうなった原因はなにか?」とか「少年が犯罪にいたった原因とは○○だ」などのように一般的に安易に因果を決めてしまいがちです。その原因に至るまでも原因があり、さらにその前にも原因となる要素があるのです。逆に「こんな結果になろうとは・・・」などのように、これもまた安易に因果を決めてしまっているのです。その結果は将来的に何かの原因となるのです。先のは過去に対する事象、これは未来に対する事象、いずれも「今」という時現においては目で見ることも、耳に聞くこともできない事象なので、どこかでくぎりを着けてしまうのです。もし、「今の結果」が将来的に何かの原因になることを思うと、悲観な結果でも将来は明るいほうに運命をもっていけるような予感がするはずです。そこに、二次元的な観念がうまれるのです。

 さて、ここまで読んで「一次元とは悪いことだ」と思われた方も多いでしょう。その考え方に存在する「よい、悪い」も一次元の概念です。「自分は次元が高い」と思っていると、それは一次元的な考え方であり、けして高い次元ではありません。「一次元」とは私たちが実生活をするにおいてなくてはならない次元なのです。いわば、「基本の次元」と申しましょう。

 数学では、一次元はx軸しかない、いわゆる「数直線」です。ゼロからプラスの方向に出発していくと必ず10を通過します。ここに、y軸があったとすると、yについて0が固定されているときは同じように必ず(10,0)の座標を通過しなければなりません。ここに、yに自由度を持たせると(10,0)を通らずに(10,1)などの座標から迂回ができます。ここに、面としての二次元的な考えが発生するのです。同様に三次元、四次元として概念を見出すことができます。

 私たちは苦楽不問の境地になって初めてこの多次元的な観念が生まれてくるのですが、難問があっても解決をすると「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の如く、淡々と生活を送ってしまい、また次の難問に進んでしまいます。常に苦楽不問であり続けることは大変困難なことで、ときには無意味です。ただ、常にその観念を見出せる状態に自分を置くことは可能で意義のあることでしょう。ここでいう「苦楽不問」とは陰陽融合、さらに超越した観念なのです。多くの人が抱く苦を抜き楽を受けようとする「享楽抜苦」の意識では、それさえもままなるまい。

 3.時空を科学する「光を超越した場の理論」

 光は本質的に目には見えません。「そんなばかな」と、思われる方は実験してみてください。すぐできます。今、あなたの部屋には電球があるでしょう。電球は目に見えますね。それと、その光を受けて、白い壁、テーブルが見えていると思います。でも、電球から、壁やテーブルに至るまでの光は見えていないはずです。夜に外で、車のライトをつけてみたらよくわかります。光って見えるのは、照らされた地面と空気中の埃ですね。私たちはいつも、真っ暗闇で生活をしているのです。

 まあ、なんと「理屈っぽい」のでしょう。ですが、ここから掘り下げていけば、面白いことにぶつかるのです。電気による場は電場、磁力は磁場。では、これは、光の場、つまり今私たちが科学で論議しているのはこの「光の場」の領域なのです。電気も磁力も光も実は目に見えません。でも、その何もない空間には目に見えないエネルギーがある(通過している)のです。

 宇宙はたとえ空気がなくてもエネルギーで満たされています。銀河系などの小宇宙内は特にそうでしょう。さらに、突き進めると、光の速度と言うのが問題になります。現在の科学ではそれを加味しています。その昔はケプラーの法則だけで天体軌道論が成り立ったのでしょうが、現代では相対性原理による補正が必要なのです。同様に、光、時間、空間の関係を紐解く、つまり、「光の理念を超越した場の理論」これが、新しい宇宙観を私たち人類にもたらす事となるかもしれません。

 これ以上書くともっとむづかしくなるので、この辺で終わりとしましょう。とにかく、既成概念にとらわれることなく、頭は柔らかく楽しく使いましょう。面白い発想が生まれてきます。それ、生み出すエネルギーなのです。

 いろいろ書くと一冊の本になってしまいそうです。ですから、ホームページではこの辺で、氷山の一角だけ披露しておきます。私もあまりむづかしいことは嫌いだし、忘れるときもある。とにかくせっかくの人生、力強く精一杯生きることを祈る!

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