玄上の歩み
合掌 至心玄道には形としての「お山」はありません。私の思う「お山」と |
![]() 南アルプス赤石岳三千メートルの稜線にて |
昭和45年(1970年)亜甲中玄の顕現 私の大師匠酒谷法系先生は若い頃から優れた霊力をもたれ、「今、まだこの世に無い、何かがある」との強い思いで、法華経の大荒行を幾たびも行してこられた方です。そうして、昭和45年8月13日に「亜甲中玄」を顕現されました。私が初めて師匠のお顔を拝見したのは、その後、昭和47年の元旦でありました。 昭和53年(1978年)大師匠のもとへ弟子入り「玄上」の誕生 大学で量子力学を学んでいた私は、東西思想の接点に触れたとき、ふとした事でこの道に入りました。昭和53年9月に、大師匠のもと静岡のお山に入り、弟子の修行をして、その後「玄上」という法名をいただきました。3年ほど静岡のお山で修行したのち、大阪でSEを続けて社会の修行となりました。 昭和61年(1986年)大師匠文学部門にて国際アカデミー賞 宗教哲学に優れておられた大師匠はこの年国際アカデミー賞を受賞されました。私にとりましても、たいへん、思い出深い年となりました。 平成5年(1993年)静岡に移住、そして大師匠の他界 弟子の務めとして大阪から静岡まで、毎月通っていた私ですが、大師匠から「家族で、おれのところへ来なさい」とお声がかかり、妻子と共に師の元へ移住しました。しかし、大師匠はご自分の死期をさとられていたかのように、引越しの三日後大師匠は他界されたのです。まさか、大師匠の葬儀の主導師を務めることになろうとは思ってもみませんでした。 平成6年(1994年)「無」からの出発、至心玄道の始まり 大師匠の亡き後、弟子としてご子息の手となり足となることが自分の務めだと思い、躍起になっていました。力のある方が亡くなるとよくあることですが、弟子たちから、躍動的な私に対するひがみや嫉妬の圧力を感じるようになりました。ゴタゴタも嫌ですし、そっと「お山」を去りました。その後、私のいないお山で「乗っ取りに来た」とか「お金を使い込んだ」など、いろいろうわさされた事を風の便りで聞きましたが、「お山」を去った後、ひとりで修行を始めていた私にとって、想像の世界で膨らんでいるうわさどころでなく、裸ひとつで厳しい荒行の真っ只中にいたのです。 至心の念をして玄の道。邪念に満ちた心を見てきましたので、まさに捨邪洗魂の念をして、建物はなくとも心ある大自然の「お山」を冷風雪の荒行中に見出したのです。 平成11年(1999年)ネットサイト「むしろごやの行者」 荒行中に、「日本海の見える鹿島」と、お告げをいただき、長野に引越しをしました。「鹿島」さて何処か?晩秋の凍てつく北アルプスで修行をしていたときのこと、なるほど鹿島槍ヶ岳の山頂からは黒部の町の向こうに日本海が見える。「ここだ」。何故かわからぬが「何故」は無し、神のお告げのままに静岡を離れたのでした。 その翌年2000年の夏、「玄上よ、まずは百万人の人々に、尊無上亜甲中玄を聞かせてあげよ」と、三千メートルの荒川岳北面カールを下っていたときにお告げをいただき、インターネットを始めました。それが「むしろごやの行者」の始まりです。 平成14年(2002年)建物としての道場 そして、それから三年余り経ちました。地元の方のお世話で森の中に道場を持つことができたのです。「玄上よ、お前には何が必要か。それ、人にあり。」と常日頃、姿形無き大師匠に励まされ、山小屋の道場にて、そして、その山々にて、新たなる修行始まりました。 平成19年(2007年)日本海の見える鹿島 白馬に引っ越してみると、鹿島槍ヶ岳の北面を望むことができる。まさに、この地こそが「日本海の見える鹿島」です。気が付くと、北アルプスの白馬岳連山や劔岳が私のフィールドになっていました。天高き事一万尺はその頂で終わりではないのです。亜甲中玄は頂からさらに天に向けて無限に続いているという実感の日々。今、この北アルプスの地から、ネットを通じて、心に光あるお話を日々配信することで精進いたしております。 今日に至って 大師匠が何も無い中から出発したように、私も弟子としてそれに習い、修行の暦月を重ね、荒行中生死の境に至る事も何度かありました。ここに今、この経を広めることが大師匠から残された私の務めなのです。大師匠の教えは私の魂の奥深く根付いているのです。 尊無上大聖玄師亜甲中玄 尊無上亜甲中玄 玄上 |